[社会] アッツ島「玉砕」80年、戦地から父の愛27通「たまにはお前らの夢見たい」…家族引き裂いた戦争

 太平洋戦争の激戦地アッツ島で日本軍が全滅してから今年で80年となった。北海道旭川市の男性は、戦死した父から届いた27通の手紙を大切に保管している。肉筆ににじむ父の愛情に思いをはせつつ、静かに戦争への怒りを募らせている。(中尾敏宏、川畑仁志)生還を約束アッツ島から送られてきた手紙やはがきを前に、父の人柄について思いを巡らせる西村紀義さん(旭川市で)=原中直樹撮影 <いつ雪がとけて春らしくなるか見当がつきません。ツンドラですからね。夜、床に入ると子どもらのことを思い出して1人考えています>  旭川市の自宅で西村 紀義(きよし) さん(86)は、父正義さんが母花子さんに宛てて書いた手紙をじっと見つめた。日付は1943年4月28日。当時1~7歳だった西村さんら4人の子どもたちも読めるように片仮名で書かれ、<お父さんが帰るとき、いいお土産をたくさん買っていってあげます。母さんの言うことをよく聞くのですよ>と結ばれていた。  しかし、正義さんが再び故郷の地を踏むことはなかった。ツンドラで倒れる 正義さんは旭川市の郵便局で働いていた42年、病気になった同僚の代わりに軍属として同島に行くことが決まった。当時31歳。現地にある「第381野戦郵便局」で13人の局員と軍事郵便や兵士の貯金の管理を担った。軍服姿の西村正義さん(撮影時期は不明)(紀義さん提供) 正義さんが生還を約束した手紙から1か月後、1万1000人の米軍が上陸を始めた。2600人の日本軍は18日間にわたって抵抗したが、ツンドラが広がる荒野で全滅した。 正義さんの家族の元には、遺骨の代わりに砂が入った骨つぼが届いた。軍部はこの戦いから、部隊の壊滅を「玉砕」と表現し始め、戦死を一層美化するようになった。手紙を発見 父と5歳で生き別れた西村さんは、その顔を覚えていない。詰め襟の服を着て、赤い自転車にまたがる姿がうっすらと浮かぶぐらいだ。 西村さんは、母・花子さんが2003年に94歳で亡くなった後、遺品を整理する中で、正義さんからの手紙やはがきを初めて見つけた。そこには戦地で暮らす父の心情がつづられていた。 <毎日機銃掃射や爆弾のお見舞いです。海空共同でドンドンバリバリやられました> 苦しい戦況を伝える一方で<相変わらず元気いっぱいで働いているから、どうか安心してくれ>と気丈に振る舞った父。<たまにはお前らの夢でも見たい。

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[社会] アッツ島「玉砕」80年、戦地から父の愛27通「たまにはお前らの夢見たい」…家族引き裂いた戦争

 太平洋戦争の激戦地アッツ島で日本軍が全滅してから今年で80年となった。北海道旭川市の男性は、戦死した父から届いた27通の手紙を大切に保管している。肉筆ににじむ父の愛情に思いをはせつつ、静かに戦争への怒りを募らせている。(中尾敏宏、川畑仁志)

生還を約束

アッツ島から送られてきた手紙やはがきを前に、父の人柄について思いを巡らせる西村紀義さん(旭川市で)=原中直樹撮影
アッツ島から送られてきた手紙やはがきを前に、父の人柄について思いを巡らせる西村紀義さん(旭川市で)=原中直樹撮影

 <いつ雪がとけて春らしくなるか見当がつきません。ツンドラですからね。夜、床に入ると子どもらのことを思い出して1人考えています>

 旭川市の自宅で西村 紀義きよし さん(86)は、父正義さんが母花子さんに宛てて書いた手紙をじっと見つめた。日付は1943年4月28日。当時1~7歳だった西村さんら4人の子どもたちも読めるように片仮名で書かれ、<お父さんが帰るとき、いいお土産をたくさん買っていってあげます。母さんの言うことをよく聞くのですよ>と結ばれていた。

 しかし、正義さんが再び故郷の地を踏むことはなかった。

ツンドラで倒れる

 正義さんは旭川市の郵便局で働いていた42年、病気になった同僚の代わりに軍属として同島に行くことが決まった。当時31歳。現地にある「第381野戦郵便局」で13人の局員と軍事郵便や兵士の貯金の管理を担った。

軍服姿の西村正義さん(撮影時期は不明)(紀義さん提供)
軍服姿の西村正義さん(撮影時期は不明)(紀義さん提供)

 正義さんが生還を約束した手紙から1か月後、1万1000人の米軍が上陸を始めた。2600人の日本軍は18日間にわたって抵抗したが、ツンドラが広がる荒野で全滅した。

 正義さんの家族の元には、遺骨の代わりに砂が入った骨つぼが届いた。軍部はこの戦いから、部隊の壊滅を「玉砕」と表現し始め、戦死を一層美化するようになった。

手紙を発見

 父と5歳で生き別れた西村さんは、その顔を覚えていない。詰め襟の服を着て、赤い自転車にまたがる姿がうっすらと浮かぶぐらいだ。

 西村さんは、母・花子さんが2003年に94歳で亡くなった後、遺品を整理する中で、正義さんからの手紙やはがきを初めて見つけた。そこには戦地で暮らす父の心情がつづられていた。

 <毎日機銃掃射や爆弾のお見舞いです。海空共同でドンドンバリバリやられました>

 苦しい戦況を伝える一方で<相変わらず元気いっぱいで働いているから、どうか安心してくれ>と気丈に振る舞った父。<たまにはお前らの夢でも見たい。毎日、帰還の日を指折り数えて待っております>と本音もこぼした。西村さんは「手紙は親子を結ぶ絆で宝物だ」と語り、肉筆から父の優しさや誠実さを思い描く。

 戦後、母花子さんは4人の子どもを育てるため、昼は木工所、夜は洋裁の仕事をして懸命に働いた。西村さんは「戦争は父を奪い家族を引き裂いた」と声を振り絞った。

アラスカで慰霊

 西村さんは、父の遺骨が残るアッツ島にこれまで3回、慰霊で訪れた。戦没者の子どもの世代が高齢化する中で、次男の浩一さん(52)は2019年に「アッツ島戦没者慰霊の会」を結成し、会長として慰霊活動を継承。米軍が収集した日本兵の遺骨が一時的に埋葬されていた米アラスカ州アンカレジで現地時間24日、5年ぶりに慰霊祭を開く。

 ただアッツ島での戦没者約2600人のうち、遺骨は320人分しか戻っていない。厚生労働省によると、気象条件が厳しく、上陸すら難しいためだ。政府が行った遺骨収集は1953年と78年の2回にとどまる。西村さんは「遺骨がなかったため、母も最期まで父の死を受け入れられなかった」と語り、国が収集するよう訴えた。

海外112万柱が未帰還

 第2次大戦の海外戦没者は240万人に上る。厚労省によると128万人の遺骨が帰還したが、今年5月末時点で112万柱が未帰還のままだ。そのうち23万柱は「相手国の事情によって収容が困難」という。中国では国民感情によって調査や収集ができず、北朝鮮とは国交がない。沈没した艦船の乗員ら海底に眠る30万柱については収集に技術的な制約がある。

 厚労省は残る59万柱を中心に調査や収集を進める方針という。今年6月に戦没者遺骨収集推進法を改正し、2024年度までとしていた遺骨収集の集中実施期間を29年度までに延長した。

 ◇ アッツ島 =米アラスカ州のアリューシャン列島にある小島で現在は無人島。日本軍は1942年6月に占領し、守備隊を置いた。43年5月12日、同島の奪還を図る米軍が上陸を開始し、同29日、日本軍は全滅した。捕虜になって生還したのは27人とされる。

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