[経済] 京浜工業地帯のシンボル「JFEスチール」高炉が半世紀で幕、元鉄鋼マン「時代の流れ」

 鉄鋼大手「JFEスチール」の東日本製鉄所京浜地区(川崎市)で16日、鉄鉱石を溶かして銑鉄を生産してきた高炉(高さ約108メートル)が休止し、半世紀近い歴史に幕を下ろす。周辺は水素供給など次世代産業拠点として生まれ変わる計画で、日本の高度成長を支えた元鉄鋼マンらは名残を惜しみつつ、「時代の流れ。川崎の新たな発展につながれば」と願う。(松岡妙佳、中山知香)跡地は水素供給拠点に16日に休止する高炉。京浜工業地帯のシンボルの一つだった(7日) 高炉がある扇島は東京湾の埋め立てによる人工島だ。川崎駅前の繁華街から車で20分ほど。7日に報道陣に公開された島内は鉄のにおいが漂い、高炉が激しく水蒸気を吐き出していた。  扇島では、JFEスチールの前身の一つ、日本鋼管が1976年に第1高炉、79年に第2高炉を稼働させ、84年に生産のピークを迎えた。69年に入社した名越高治さん(73)と藤田重則さん(73)は、第2高炉の稼働とともに扇島に異動になった。鉄鋼マン時代の思い出を語り合う名越さん(左)と藤田さん(14日、川崎市川崎区で) 18歳だった2人は「他の企業より給料が高かったから」と同社に就職。その分、仕事はきつかった。24時間眠らない現場を3交代制で守る。「60キロの米俵を持ち上げられなければ働けない」とも言われ、去っていく同期も多かった。 名越さんは鉄の塊を板状に変える作業を、藤田さんは銑鉄を鋼につくり替える作業などを担った。鋼の周りは高熱で、気を失って倒れたこともあったという。 現場は活気に満ち、上司は「どんどん造れ」が口癖だった。自動車用の鉄板、橋、油田のパイプ……。扇島の鉄鋼製品は様々なものに使われ、販路も海外に広がった。藤田さんは「外国の大手企業をお客にモノを造っているのが誇らしかった」と懐かしむ。 しかし、中国製品の台頭などで徐々に売り上げは落ち、生産体制も縮小。2003年に川崎製鉄と統合してJFEスチール東日本製鉄所が誕生し、翌年に第1高炉は休止になった。第2高炉とともに定年まで働いた2人は今、市民団体で従業員や関連会社員の労働相談に応じている。 「自分を育ててくれた場所がなくなるのはさみしい」。川崎駅広域商店街連合会の理事を務める中西孝幸さん(60)は、1982年に日本鋼管に入り、高炉周辺の設備メンテナンスを担当した。 40歳で退職し、妻の実家の中華料理店を継

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[経済] 京浜工業地帯のシンボル「JFEスチール」高炉が半世紀で幕、元鉄鋼マン「時代の流れ」

 鉄鋼大手「JFEスチール」の東日本製鉄所京浜地区(川崎市)で16日、鉄鉱石を溶かして銑鉄を生産してきた高炉(高さ約108メートル)が休止し、半世紀近い歴史に幕を下ろす。周辺は水素供給など次世代産業拠点として生まれ変わる計画で、日本の高度成長を支えた元鉄鋼マンらは名残を惜しみつつ、「時代の流れ。川崎の新たな発展につながれば」と願う。(松岡妙佳、中山知香)

跡地は水素供給拠点に

16日に休止する高炉。京浜工業地帯のシンボルの一つだった(7日)
16日に休止する高炉。京浜工業地帯のシンボルの一つだった(7日)

 高炉がある扇島は東京湾の埋め立てによる人工島だ。川崎駅前の繁華街から車で20分ほど。7日に報道陣に公開された島内は鉄のにおいが漂い、高炉が激しく水蒸気を吐き出していた。

 扇島では、JFEスチールの前身の一つ、日本鋼管が1976年に第1高炉、79年に第2高炉を稼働させ、84年に生産のピークを迎えた。69年に入社した名越高治さん(73)と藤田重則さん(73)は、第2高炉の稼働とともに扇島に異動になった。

鉄鋼マン時代の思い出を語り合う名越さん(左)と藤田さん(14日、川崎市川崎区で)
鉄鋼マン時代の思い出を語り合う名越さん(左)と藤田さん(14日、川崎市川崎区で)

 18歳だった2人は「他の企業より給料が高かったから」と同社に就職。その分、仕事はきつかった。24時間眠らない現場を3交代制で守る。「60キロの米俵を持ち上げられなければ働けない」とも言われ、去っていく同期も多かった。

 名越さんは鉄の塊を板状に変える作業を、藤田さんは銑鉄を鋼につくり替える作業などを担った。鋼の周りは高熱で、気を失って倒れたこともあったという。

 現場は活気に満ち、上司は「どんどん造れ」が口癖だった。自動車用の鉄板、橋、油田のパイプ……。扇島の鉄鋼製品は様々なものに使われ、販路も海外に広がった。藤田さんは「外国の大手企業をお客にモノを造っているのが誇らしかった」と懐かしむ。

 しかし、中国製品の台頭などで徐々に売り上げは落ち、生産体制も縮小。2003年に川崎製鉄と統合してJFEスチール東日本製鉄所が誕生し、翌年に第1高炉は休止になった。第2高炉とともに定年まで働いた2人は今、市民団体で従業員や関連会社員の労働相談に応じている。

 「自分を育ててくれた場所がなくなるのはさみしい」。川崎駅広域商店街連合会の理事を務める中西孝幸さん(60)は、1982年に日本鋼管に入り、高炉周辺の設備メンテナンスを担当した。

 40歳で退職し、妻の実家の中華料理店を継いだ中西さんにとって、「高炉休止で多くの従業員がいなくなれば、周辺の飲食店も影響を受けるだろう」という不安はある。だが、222ヘクタールに及ぶ広大な跡地では、川崎市など官民による大規模事業が計画され、新産業の拠点となる見込みだ。「活気あふれる川崎ならピンチも乗り越えられる。将来的には高炉の跡地が人を呼び込む場所になるだろう」と期待する。

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