[旅] 伝説の奇岩 江戸期に探訪…男鹿(おが)半島(秋田県男鹿市)
目をおどろかしたるは 塩(シホ)湍(ゼ) の 岬(サキ) 也。筆にもこと葉にも、なかなかのながめにこそあらめ。――――菅江真澄「男鹿の秋風」(1804年) 海岸の平らな地形に大小さまざまな奇岩が立ち並ぶ潮瀬崎。自然の彫刻美術館ともいわれる 日本海に突き出す男鹿半島に魅せられて、江戸時代の旅行家、菅江真澄は何度も旅した。「海と山と湖で成り立つ男鹿の景色や民俗を、正確な図絵と文章で記録した。この絵日記を片手に巡れば、今の男鹿も全部観光できる」。男鹿市菅江真澄研究会の天野荘平会長(73)にそう勧められた。 旅人もてなした小屋…梼原(ゆすはら)町(高知県) 1804年(文化元年)の旅で、<筆にもこと葉(言葉)にも>簡単に表現できないと驚嘆したのが潮瀬崎の眺望だ。船のような帆掛島、双子岩などのほか、ゴジラ岩、ガメラ岩、ゴジラのしっぽ岩まで……。足を運ぶと、火山の噴出物が雨風や波で削られた自然の彫刻が林立する。ゴジラ岩などの命名は近年だが、真澄の絵にも、怪獣形の岩が見えるのが面白い。潮瀬崎のゴジラ岩。夕日と重なり、火を吐くような姿が見られた 真澄はこの後、<鬼の集りて 築(ツク) る>物語がある999段の石段を上って赤神神社五社堂へ向かう。そしてこの地に漢の武帝や秦の徐福の伝説が残る理由を、大陸から渡来した<ことくにうど>(異国人)が<そのみたまを>まつったのではと推察した。220年後に古びた石段を上っていても、なぜ男鹿に古代中国や鬼の伝説が多いのかと、夢想せずにはいられない。 真澄は6年後の旅では丸木舟に乗って、切り立った崖が続く西海岸の奇岩観光に繰り出している。波の穏やかな日に運航する「絶景クルーズ」の遊覧船で同じ風景を見てみた。門前漁港を船出した船は、ゴジラ岩を海から見た後、北上する。絶壁を覆う緑と荒々しい岩礁の対比が美しい。真澄が名前を記した岩々を通り過ぎ、見えてきたのが舞台島。頂上が平らで、真澄も<武帝の 霊魂(ミタマ) あまくだりまし>た伝説を記録した。 ほぼ垂直に落ちる白い滝や海食洞にも見とれる。「条件が良ければ、船は洞窟の中にも入っていくよ」と竹谷秀己船長(59)。<世にあやしう面白ところ>と記された西海岸のシンボル、 大桟橋(だいさんきょう) あたりがクルーズの折り返し地点だ。波に削られた天然の石橋の見事
目をおどろかしたるは
塩 湍
の
岬
也。筆にもこと葉にも、なかなかのながめにこそあらめ。――――菅江真澄「男鹿の秋風」(1804年)
日本海に突き出す男鹿半島に魅せられて、江戸時代の旅行家、菅江真澄は何度も旅した。「海と山と湖で成り立つ男鹿の景色や民俗を、正確な図絵と文章で記録した。この絵日記を片手に巡れば、今の男鹿も全部観光できる」。男鹿市菅江真澄研究会の天野荘平会長(73)にそう勧められた。
1804年(文化元年)の旅で、<筆にもこと葉(言葉)にも>簡単に表現できないと驚嘆したのが潮瀬崎の眺望だ。船のような帆掛島、双子岩などのほか、ゴジラ岩、ガメラ岩、ゴジラのしっぽ岩まで……。足を運ぶと、火山の噴出物が雨風や波で削られた自然の彫刻が林立する。ゴジラ岩などの命名は近年だが、真澄の絵にも、怪獣形の岩が見えるのが面白い。
真澄はこの後、<鬼の集りて
真澄は6年後の旅では丸木舟に乗って、切り立った崖が続く西海岸の奇岩観光に繰り出している。波の穏やかな日に運航する「絶景クルーズ」の遊覧船で同じ風景を見てみた。門前漁港を船出した船は、ゴジラ岩を海から見た後、北上する。絶壁を覆う緑と荒々しい岩礁の対比が美しい。真澄が名前を記した岩々を通り過ぎ、見えてきたのが舞台島。頂上が平らで、真澄も<武帝の
ほぼ垂直に落ちる白い滝や海食洞にも見とれる。「条件が良ければ、船は洞窟の中にも入っていくよ」と竹谷秀己船長(59)。<世にあやしう面白ところ>と記された西海岸のシンボル、
潮瀬崎や西海岸の地層は約3500万年前、日本列島が大陸の東縁にあったころの火山噴出物でできているという。その悠久の歩みに比べれば、220年なんてほんの一瞬。真澄の旅が昨日のことのように思える。
菅江真澄 (すがえ・ますみ) 1754~1829年。三河(愛知県東部)生まれ。国学や本草学を学び、1783年に郷里を離れ信濃(長野)を経て奥州(東北)やえぞ地(北海道)を探訪。数多くの日記や図誌を残した。1811年から久保田城下(秋田市)に暮らし、郷里に戻ることはなかった。男鹿半島の主な旅の日記は、男鹿五風といわれる五つの文章にまとめられ、「菅江真澄全集 第四巻」(未来社)や「菅江真澄遊覧記5」(平凡社、現代語訳)で読める。
文・佐藤憲一
写真・古厩正樹
地層・民俗…掘り起こす
男鹿半島は、地層の宝庫だ。日本列島が大陸の一部だった頃から、日本海ができ、現在の姿になるまで過去7000万年分の地層や地形が見られるという。「ここの地層を見れば、日本列島のでき方が分かるという人もいます」と、男鹿市ジオパーク学習センターの菊地光和さん(71)に聞いた。
<三千世界まなこのうちにつきなんと(一望のうちに尽きる)>と真澄が山頂付近からの眺望を堪能した寒風山は、2万~3万年以上前からの複数の噴火で形成された火山だ。真澄の絵で石塔が立つ山頂(355メートル)は現在、回転展望台があり、風力発電の風車が並ぶ秋田市側の海岸線や、戦後干拓されるまで日本で2番目に大きな湖だった八郎潟を眼下に収める。
近くの<大岩どもの、山の如くおち重る>鬼の隠れ里は、噴出した溶岩の塔が崩れたもの。真澄が真ん丸な姿を絵に残した半島西部の一ノ目潟や二ノ目潟は、噴火口跡にできた火山湖。大地の活動の跡を真澄も楽しんでいた。
民俗学の祖ともされるだけに、男鹿の信仰や生活の記述も豊富だ。有名なナマハゲも1810~11年の旅で知って八郎潟湖畔で実際に見学、最古の記録となった。「真澄の絵や文では、今一般的な『怠け者はいねが~』とは言っていない。当時のナマハゲが分かり貴重です」と男鹿市菅江真澄研究会の天野荘平会長。
かやぶき屋根の男鹿真山伝承館で、ナマハゲの実演を見学した。ウォーと大声を出し、乱暴に戸をたたいて恐ろしげな面をつけて入ってくるナマハゲは、子供でなくても怖い。
ナマハゲの起源は幾つか説があるが、漢の武帝が連れてきて五社堂の石段を作った鬼が起こりとも言われる。
帰り際、雲昌寺のアジサイを見に立ち寄った。20年ほど前から副住職が境内に植え始め、近年、新しい男鹿名所として注目を浴びている。一面に広がる青いアジサイに囲まれて、植物にも詳しかった真澄なら、どう絵に描いたかと考えた。
●ルート 東京駅から秋田新幹線で秋田駅まで4時間弱。秋田駅からJR男鹿線で男鹿駅まで約1時間。
●問い合わせ 男鹿駅観光案内所=(電)0185・24・2100
[味]「石焼御膳」でタイを丸ごと
男鹿名物の一つが、漁師料理がルーツの石焼料理。半島の先端、入道崎にある「なまはげ御殿」((電)0185・38・2011)で「石焼御膳」(2700円)を頼むと、魚介の入ったみそ味の鍋に、目の前で熱した石を入れてくれる。ぐつぐつと沸騰し湯気をあげるさまは迫力満点=写真=。石は硬くて高温にたえる地元産の溶結凝灰岩「
子供の頃、よく海に潜りに行き、捕った魚をたき火で熱した石を入れた鍋にして磯辺で食べたという。「まさかその料理が、今みたいに有名になるとは思わなかったよ」と笑う。
ひとこと…豊橋とのご縁から
今回の旅のきっかけは、真澄の出身地候補の一つが記者が少年時代を過ごした愛知県豊橋市の牟呂地区だと知ったこと。真澄の本名・白井秀雄と同姓の同級生も小中学時代、一番近所の子やガキ大将など何人かいた。彼らのご先祖様と真澄がつながっているのでは。そう考えながら旅すると真澄の心境により近づけた。
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